サイコロの目は時間や空間による函数だ、と唐突に言い出すと、常識人は眉間にしわ寄せ、私を笑う。
1、1、1、と一の目が出続けた後、また1が出る確率は?と訊くと、なんの疑いもなく1/6と答えるのは知識人。ただ私は、賭けるコインを一枚増やし、また1が出るだろうと高らかに宣言する。
この世の中にはランダムに見える出来事があまたある。しかし、勝負に勝ち富を得る人は決まっている。ひとはこれを理不尽だと思いながら、「運」がついていなかったのだ、と根拠のない意味づけをして妬ましい気持ちをごまかしている。
ただ本当はサイコロの目のでたらめも、優柔不断な気まぐれも、すべてその背後には法則性が必ずあって、我々が「幸運」や「巡り合わせ」などと思っているのも、じつは自然法則の論理的帰結なのである。

こうした「運命」を物理学の式のように数学で書けたらいいのだけれど、それがどういうわけかまだできていない。これはexp(x^2)の不定積分が初等函数で表せないのと同じことで、人間の使うことば(*1)では表現しきれない複雑性があるからである。
円周率は3.141592…と無限に続くが、その数の並びには法則性がない、と言われている。ただ、円周率には意味がある。つまり、法則性がないんじゃなくて、法則性を見出だせないだけなのである。

乱数は時空を変数とした函数である、と言うと宗教家だけが振り向いて、その函数こそ「神」なのだ、と私に教えてくれるのだが、私はそれも違うと思う。
どんなに辛い境遇にあっても、それはお前の運命だから耐え抜かなくてはいけないのだ、と教えるのが宗教であり、「神」の存在を認めることである。
「運命」が函数で決まっているなら、この先の未来をパラレルに予測できる。「運命」の分かれ道に差し掛かったときに、その数多ある未来のなかから自分の望む未来につながるように、あたらしく初期値を変えてゆけばいいのである。
ただその函数とやらが数字や記号で書けないかぎり、私(*2)の思想は非科学的な「信念」であって、非常識で夢見がちな新しい「新興宗教」のひとつと見做されるだけである。