2018年05月26日

四季のない歳時記

 ベトナムから来た人が、ベトナムらしい歳時記をつくりたい、と熱心に語っているのを聴いて驚いた。熱意に満ちた表情になんだか心動かされたのと、和歌のふるさとであるこの日本で、そのリズムさえ顧みる人がめっきり少なくなってしまったことにやや恥じ入ったからである。 四季とりどりに、よそおいを変える自然の姿を伝えるためにつくられた、俳句という日本文学。その五・七・五のなかにみずみずしい季節感を表す“季節のことば”つまり季語を取り込み詠むことが暗黙のルールとなっている。ただ、この決まりごとを今あらためて思いなおすと、俳句がきわめて日本的なものであるという外国のひとのいうことが分かる。日本語の語感・リズムうんぬんの話よりも、俳人、俳句がのぞかせている風景・世界そのものが、四季に彩られたこの国らしさであるからである。

 いつもは見ない世界の地図を広げてみるば、ベトナムは沖縄や台湾よりも南にあって、縦長の国土の南のほうは赤道にぐっと近く、ベトナムには季節がないのだろうと思われる。季節というより、日本のような四季がないと言ったほうが正しいのかもしれない。四季の代わりにあるものといえば、乾季と雨季だけだそうで、わずかな地理の知識をもっても、私たちの知っている「季節」というのとはちょっとちがった気候の移ろいがあるのだとわかる。

 いまの私たちにとってあまり身近とはいい難いこの国で、松尾芭蕉などが紹介され、ついこないだからは、古池にとび込む蛙の音のこころが、ベトナムの学校で子どもたちに教えられているというのだから驚きである。ひょっとしたらかつてのルックイーストやドイモイ政策なんかに始まりをもつものなのかもしれないが、村上春樹など現代作家を含めた日本文学への関心もぽつりぽつりと生まれてきているそうである。近頃ではHAIKUブームなんてものも起こってきて、必ずしも日本風でなしに自国流の独自のこころを探求し、HAIKU VIETを創り上げようというベトナムの俳人・歌人も少しずつ生まれてきているという。

 歴史とか政治のようなしがらみはおいて考えてみると、異国の地で日本文学が読まれ、新しい文学を産みだす種となっているというのはとても嬉しいことである。それも、気候や風土などまったく日本らしくない場所で、日本語はかたことであっても、熱く日本文学について語り考え合っているひとがいるというのは、私たち日本人にあらためて世界の広さを教えてくれることである。

 外を降る大粒のスコールのなか、本を広げて古池の音が彼らの心にどう響くのか。実験というと変なかんじがするが、異質なものと触れ合った時の化学反応からあふれ出すであろう、奥深い面白さに触れることができるのを、日本人ながらなんだかうらやましく思うのである。

2017/6/11 鳥山 柚樹

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2018年05月19日

"伊豆の踊子"

東海道線から伊豆・熱海・修善寺へとゆく特急「踊り子」は、いわずもがな文豪・川端康成の処女作「伊豆の踊子」をふまえた列車である。ながいあいだ「踊り子」の185系がつけて走ってきたヘッドマークを私はひいきにしている。

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絵のなかの、蒼い海の向こうに入道雲が立っているのだから季節は夏で、これはたしかに「伊豆の踊子」の一場面である。前髪をぱつんと切ったまだあどけない顔の少女が水平線のかなたを見つめている。彼女が川端のいう〈踊子〉で、〈私〉はこの娘をつれた旅芸者の一行とこの何日かの半島の旅を共にしてきたのである。その旅の中で一高生の〈私〉は〈踊子〉の純粋なむすめらしさにこころ惹かれる。そして最後には下田の港まで道連れてやってくるのだが、ここで〈私〉はどうしても東京に帰らなくてはならない。

海を見つめる小さな乙女の細く白い右手が、港を発って次第に遠くなってゆく汽笛にこたえて、さよならと言っている。

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折に触れてまた「踊り子」に乗る機会があって、湯河原あたりから見え始めるきらきらとした青い海に、伊豆の半島の夏蜜柑の甘酸っぱさを重ね合わせてみたのである。旅の宿で行李をひろげて、また何度目か「伊豆の踊子」を読み返すのである。

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