2018年03月26日

いらっしゃいませ、春ですね

 あたたかさが残っていたから、飲みほしたコーヒーカップをまだ握りしめていた。底にうっすら残るコーヒー見つめ、掌のなかでぐるぐると、考えごとをしていたのだけれども、思いはいつもの行き止まりに来て、仕方のないこと、と傍らのギターに手を伸ばしては、他愛ないアルペジオを爪弾いて、いつものようにお茶を濁してばかりいる。

 空の寒さ、風の冷たさがあたりまえだったこないだまでは、ストーブを焚いて通り沿いの窓ガラスを内から曇らせておけば、それでよかった。道すがら足を休めてゆくひとも少なくなく、カプチーノの淡い泡、カフェラッテの甘い湯気でコーヒーショップはにぎやかだった。けれど春一番の風が吹いて、三寒四温も温に傾くようなこんな日には、ただこじんまりとして古い街道に溶け込んでしまうような、物静かなこの店はとかく忘られがちで、手もちぶさたにギターを鳴らしてみたりしている春なのである。

 昼過ぎて、西向きの通りから日差しが廊下を照らしだした。窓に近いテーブルはよく光をはね返すらしく、見ていてまぶしく、外の陽気が分かるようだった。

 夢だったお店が始まって、初めての春が来る。マスターと呼ばれてちょうど一周めの春である。はじめはやけによそよそしかった居抜きのカウンターも、新しく揃えたいくつかのテーブルたちも、ゆっくりではあるけれど、私と馴染みになってきているようである。そんなわけだから、期待というのは無いわけではないけれど、今日は不安が私の心を押している。

 この店が温めることができるのは、かじかんだつめたい手か、冷えた頬くらいなのだろうけど、それでは少しさみしいものだ。私はギターの余韻を聴きながら、コーヒーカップに手をやった。寄せたくちびるに、磁器のふちはすっかり冷たくなっていた。空のカップで飲み込んだのは、たださみしさだけだった。こうして私の二年目は始まった。

 ただその傍らで、いくつか嬉しい思い出が浮かんできた。顔なじみになったひとたちのことを思った。この道を通るたび、何度も足を寄せていってくれたひとたちが、また何かのついでにふらりと街道を通ったとき、きっとOPENの文字をお店の窓に見つけてほしい。いくつか笑顔を思い出して、気付かされたのはこんな思いだった。

 手元のカップを片付けて、もう一度ドリッパーに火を入れた。グラスはまだ磨き足りないけれど、スチームのいい音がしてほろ苦いいい匂いが広がった。

 つれづれながら、閉めてしまわなくてよかった。ウィンドチャイムがしゃらりと鳴って、いらっしゃい、ドアが開いた。若いふたり連れ、少しあついような春色のコートのふたりだった。


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posted by Y.Toriyama at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | フィクション
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