2018年04月29日

「運命」は時空の函数 -私の宗教観

サイコロの目は時間や空間による函数だ、と唐突に言い出すと、常識人は眉間にしわ寄せ、私を笑う。

1、1、1、と一の目が出続けた後、また1が出る確率は?と訊くと、なんの疑いもなく1/6と答えるのは知識人。ただ私は、賭けるコインを一枚増やし、また1が出るだろうと高らかに宣言する。

この世の中にはランダムに見える出来事があまたある。しかし、勝負に勝ち富を得る人は決まっている。ひとはこれを理不尽だと思いながら、「運」がついていなかったのだ、と根拠のない意味づけをして妬ましい気持ちをごまかしている。

ただ本当はサイコロの目のでたらめも、優柔不断な気まぐれも、すべてその背後には法則性が必ずあって、我々が「幸運」や「巡り合わせ」などと思っているのも、じつは自然法則の論理的帰結なのである。

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こうした「運命」を物理学の式のように数学で書けたらいいのだけれど、それがどういうわけかまだできていない。これはexp(x^2)の不定積分が初等函数で表せないのと同じことで、人間の使うことば(*1)では表現しきれない複雑性があるからである。

円周率は3.141592…と無限に続くが、その数の並びには法則性がない、と言われている。ただ、円周率には意味がある。つまり、法則性がないんじゃなくて、法則性を見出だせないだけなのである。

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乱数は時空を変数とした函数である、と言うと宗教家だけが振り向いて、その函数こそ「神」なのだ、と私に教えてくれるのだが、私はそれも違うと思う。

どんなに辛い境遇にあっても、それはお前の運命だから耐え抜かなくてはいけないのだ、と教えるのが宗教であり、「神」の存在を認めることである。

「運命」が函数で決まっているなら、この先の未来をパラレルに予測できる。「運命」の分かれ道に差し掛かったときに、その数多ある未来のなかから自分の望む未来につながるように、あたらしく初期値を変えてゆけばいいのである。

ただその函数とやらが数字や記号で書けないかぎり、私(*2)の思想は非科学的な「信念」であって、非常識で夢見がちな新しい「新興宗教」のひとつと見做されるだけである。

2018/04/29 鳥山 柚樹

(*1)ここでいう「ことば」とは、日頃使い慣れている言語はもとより、自然科学で使われる数式、論理学なども含まれる、広い意味での人間の認識について云っている。

(*2)この文章における「私」とはだれのことであろうか。そもそも言語だけを用いて文章中の「私」を定義することができるのだろうか。仮に「私=筆者」と書いてみたところで、その「筆者」は筆者にとってフィクションの「筆者」であることは否定できない。

posted by Y.Toriyama at 22:35| Comment(0) | 数学
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